May 14, 2024

 

母の日近し

 


レンジにチャレンジ 母の涙で一念発揮

 

 今週のテレビ視聴率を見て驚いた。カンテレが3番組も久しぶりに入っているのとナンバーワンの朝ドラ「虎に翼」の視聴率が1位でも8.1%しかないことだ。全体にテレビの視聴率が悪くなってSNSに移行していてYouTubeなどを若い人が見るし、見たい番組を録画で好きな時間に見る習慣が浸透して来たからなのだろう。各局の視聴率が低迷して各社ドングリの背比べで同じような番組の増加と横並びの視聴率増加のせいだろう。

高齢化とテレビ視聴率も関係あり高齢者の見る番組が分散多様化し好みが一様でないのもあるかもしれない。

 

 

 こうした今の視聴率の結果を見ていると現役の頃に私が作った番組の視聴率のことを思い出した。私の時代は出来るだけ良い視聴率を上げるため全社で一丸となっていたものだ。下に載せた視聴率の結果は新聞に載せるタイトルとかをワープロで仕上げて編成担当にあげ広報から新聞記事に載せてもらうための提出原稿などの一覧で1989年昭和64年の4月に始まった時のバラエテイ旅番組「ふるさとZIP探偵団」の成績表である。私はカンテレに入社結婚するまでのおよそ10年間はテレビの現場の音響効果の担当として死に物狂いで働き特にドラマで根性ドラマの開局15周年記念番組、西郷輝彦主演「どてらい男(やつ)」で高視聴率を競った。記念ドラマの放送までの15年足らずの間ははテレビ局の放送初期で色々な分野、ドキュメンタリーやニュース、音楽番組やスポーツ番組等々で数々の作品作りで熱中した。記念ドラマの後、その後の10年あまり現役を終わるまでは今度はエイトプロに移りディレクターやプロデューサーをしてワイドショーや広報・教養番組、CMやイベント等数々の仕事をこなしたがその時の記録の一部が手元に残っている。視聴率は何より大切なものだった。

 

 

  土曜日の朝10時からの時間帯の放送枠で必死に戦ったが視聴率を10%まで上げるまで皆が必死で頑張った。

10%まで上げるのに要した時間はどのくらいだったろうか調べてみたい。スポンサーもなしのサスで戦った。

「ふるさとZIP探偵団」は私が立ち上げ後輩に引き継がれタイトルも「ZIP」と変わり平成14年迄14年続いた。

 


「ふるさとZ I P探偵団」のスタート時の新聞原稿と視聴率の記録。新聞原稿作りは視聴率対策でも重要だった


私はエイトプロのディレクターになって2、3年でプロデューサーの仕事もするようになった。ここでも色々の番組を担当したが主としてワイドショーの頃から旅番組の担当が多かった。ローカルの旅番組にはもともと自信があったがこのZIPの企画を立ち上げた頃、これが最後のエイトプロでの仕事になったのだが、土曜の朝の企画で何とか10%を取ることに自信があった。世間はまだ土日の休みが一般的でない頃、朝の時間帯は10チャで朝バラ!” 6チャンで”街かど・・”など相手も好敵手、戦いに気持ちも昂った。昭和64年1989年4月にスタートしやっと9.9%にスタート8ヶ月後の1月6日土曜日曇りの朝だった。そしてその年の5月5日祝日の土曜日朝10時雨の日の朝、スタートして約1年、やっと11.6%とスタッフキャストの努力もあり10%超えを実現できた。朝の番組で10%を取るのは至難の業、と仲間は言ったが、なんとかお役に立てて内心嬉しかった。この企画の実現の前の979年3月、関西テレビの社員研修で全米1ヶ月の周遊の旅を経験し、その時こうした企画をいつか実現したいと考えていたが嬉しい実現で現場の仕事にやっと蹴りがついた。私は1940年生まれ、2000年に関西テレビを退職したがカンテレ入社は1963年昭和38年だ。入社後40年に及ぶテレビ世界での戦いだった。

 



ふるさとZIP探偵団はエイトプロの栂井社長がカンテレの福井社長から頼まれて郵便局、郵政をスポンサーにした何か良い番組ができないだろうかとの話があってその相談が私に来た。色々考えて郵便局とZIP CODE 、郵便番号のことを思いつき旅番組のタイトルに ZIP を冠に使って複数の司会者による関西ローカルのロケ番組を立ち上げてみようと提案した。役者も決まり製作プロダクションも決まってスタートしたが私のそれまでの旅番組の経験が十分生かされた番組製作の集大成となったと思う。長い間続けて後輩に道を譲ったが視聴率も10%も達成、後輩も育てて満足のゆく現役最後のプロデュース作品となった。スタートの時は毎日放送の「夜はクネクネ」に似ているとか言われたが、私たちの後にスタートした NHK の「鶴瓶の家族に乾杯」よりも早くこうした形の番組を立ち上げたのは私としては十分満足している。今も忘れられない思い出が沢山残った。

ZIPとはファスナーの意味があるが英語では元気よくやる、疾走する、勢いよく進む、迅速に動く、行動するなどという意味もあるので朝の番組には似つかわしいかとも思ったのがスタート時の感想だった。辞書によると「ビュッと音を立てる」や「ジッパーを閉める」「サッと素早く動く」といったビュッという音が立つ様子から転じた動作のことを意味する英語表現だとか、この意味でも私たちが目指すテーマにふさわしかった。

教養番組では大阪府医師会提供(株)電通によるマネージjメントで10年続いた思い出深い作品「がんばれ実年」

私はあまり軽薄な番組作りは苦手だったが真面目な番組を沢山作った。医学番組では、、、そう、これだ!

初回のシリーズはビデオも発売、有名な教授の登場だった
初回のシリーズはビデオも発売、有名な教授の登場だった

 昭和61年「健康110番・がんばれ実年」はスタートし平成6年1993年までカンテレでその後TVOが引き継いだ。

こうした懐かしい番組が思い出にいっぱいある。青春も」人生も」テレビに捧げて一途にやって来たもんだ。

ワイドショー、ドラマ、歌謡番組、スポーツ、宝塚・・思い返すと枚挙がない。いい時代にテレビで働いた。

子作りも忘れて一心不乱に働いたなあ。実の家族はまるでテレビの世界に興味がなく私のことも忘れて、、。

 


 

忘れられないもう一つの作品がエイトプロで制作しスイスのモントルー国際コンクールに出展した文楽ドラマ「愛」、受賞はできなかったが雪の降る天橋立での完全ロケで大変厳しかった作品だった。娘道成寺の安珍清姫のストーリーをもとに天橋立のお寺文殊堂と松林で吉田玉男さんらの出演で作った芸術作品だった。出演者の写真は左から横笛の藤舎名生、人形師吉田蓑助、人形師吉田玉男、能の茂山千五郎それに琵琶の上原まりら錚々たるメンバーが参加、カンテレの移動中継車を現地に持ち込んで泊まり込みでの録画の大作業だった。

 

 

雨上がりの港


2キロ先は神戸の市街、まだあまり赤いビルがない、震災からもう30年近く経った神戸の街
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虹の下は大阪の市街地、30キロ先だ
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